何がおいしいのか

何を美しいと思うのか

誰を素敵だと思うのか

何に怒りを覚えるのか

何を着るのか

何の香りが好きなのか

何に感動するのか

 

いずれも一つ一つは細々した、他愛のない、些細なものかもしれませんが、これらすべてを集めたら「生き方」とか「性格」、総じてその人そのものになるのではないかと思います。

だから僕は、自分以外の「誰か」にこれらの決定権を奪われたくはないな、と思います。
(もちろん人との関わり合いや、誰かに対する憧れ等、影響を受けることは多々あって何処までが自分で考え決めたことなのか、難しいところではありますが・・心構えとして。)

 

そんな風に気をつけていてもその「誰か」は「流行り」とか「普通」「常識」「一般論」「正義」なんて言葉で僕らの決定権を盗みます。
しかもその「誰か」は、それらの決定権がまだ僕の手元にあると思わせることも忘れません。
だから僕らは「これは自分で決めたことだ」思いこんでしまいます。

 

「誰か」は「みんな」を気付かれないように支配下に置きます。
「みんな」は、まだ「みんな」に加わっていない、あるいは加わろうとしない人を一段下に見て、嘲笑します。

「誰か」はそう仕向けることで「みんな」が満足することをちゃんと知っているのです。

 

根源である「誰か」はもしかしたら人ではないかもしれません。
人の「不安」みたいなものの集合体が「誰か」を作りだしたのかもしれません。

 

でも「みんな」は確実にいます。
大抵群れで行動します。
彼らは「誰か」の決めた価値観を正しいと信じて疑うこともせず、その価値観を振りかざし、僕や僕の友人を傷つけました。
「その人の為だ」「これは正しい事だ」とぬかして人を傷つけた奴、傷付けたことにすら気付かない奴もいました。

 

僕は「みんな」が嫌いです。
恐ろしくもあります。
きっと僕の中にも「みんな」的なものが棲みついているからだと思います。
認めたくはありませんが・・・

 

何故「みんな」的なものに自分の思考を委ねてしまうのか。
僕の実感ですと、その出発点は意外と「他人に対して和を求める心」かもしれません。

 

人に嫌われたくない

仲良くありたい

争いたくない

 

あとは「人と繋がっていたいと思う心」かもしれないです。

 

人が知っていて自分が知らないことがあると怖い

人に置いて行かれたくない

一人になりたくない

 

そういった思いが僕の中に「みんな」的なものの侵入を許したのかもしれません。

 

 

独りを恐れず、あらゆることを疑い、それでも人を信じて、色々な思想、意見を持つ多様な人々の存在を理解し、しかし時には衝突も恐れず、コミュニケーションを積極的にしていきたいと思います。