2010年10月

 インプットにもアウトプットにも疲れてしまう、そんな「凪」の時間は誰にでも訪れるものだと思います。

そんな時はあまりじたばたせず、凪の時が通り過ぎるのを待つのがよろしいかと。

良くも悪くも、時が止まる事はありませんから。


 最近の話を

2000円近くするので迷ったのですが、結局買ってしまいました。

夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです
夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです
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村上春樹インタビュー集です。

一度にたくさん読みすぎないように、大体一晩1インタビュー読むようにしています。

感想とはちょっと違うのですが読んで思った事は

「自分とは?己とは何だ?」みたいな漠然とした事に悩むより、今携わっている舞台などに100%身を投じて臨むほうが得るものは多そうだぞ。

ということです。
なにかとっても当たり前なことですね。


皆様に楽しんでいただけるよう一所懸命、稽古に臨みたいと思います。
これも当たり前ですね。


 過ぎゆく秋を想う間もなく、あっという間に寒くなってしまいました。

皆様風邪などひかぬよう、どうかご自愛くださいませ。


 夏目漱石の「門」を先日初めて読みました。

とても面白かったです。

二人は大きな音をたてないように暮らしている。

二人の間にちゃぶ台がある。その上に電球がぶら下がっている。

それら以外は何にも見えない。どんなにカメラを引いて見てもそれら以外はすべて真っ暗。

それでも二人は不幸そうには見えない。

「門」を読んで上記のようなイメージを受けました。

そんな二人の生活が、僕にはとっても羨ましく思えました。


 東京ではここ最近、夜外に出ると寒さで鼻の奥がつんとするようになりました。

お分かりいただけますか。鼻の奥が、こう、シーンとする感じ。

キリっとした空気が、このくらいの冷たさならまだ心地よいといえます。

でもあっという間に、いやになるほど寒くなるでしょうね。

もう、すぐ11月です。

最近、僕がわりと読んでいるのは吉行淳之介の本です。

吉行淳之介の本は僕にとって「ちょうどいい」読みやすさだと思います。
あんまり固かったり、難しかったりすると読みづらいし、かといってあまりに易しく、スルスル読めても内容が頭に入ってきません。
その間をとって「ちょうどいい」文章を読ませてくれるのが、吉行淳之介の小説やエッセイです。


先日、池袋の古本屋の店先に並んでいた本を購入しました。

吉行淳之介 著 「夕暮まで」

部屋がかさばるのがあまり好きではないので、ほとんど文庫本しか買わないのですが今回はつい購入してしまいました。

300円という安さもあったのですが、何より本の装丁が素敵だったからです。

201010170119000

カバー付きなんです。

201010170120000

この色のバランスにビビビッと来て思わず手が伸びてしまいました。
いわゆるジャケ買いってやつです。

タイトルが金色でなんともカッコいいです。

僕は金色がわりと好きで、以前2,3カ月迷った挙句金色の財布を買いました。

「こんな財布、常識的に考えたら・・」

「友達はなんて言うだろう・・」

など様々な想いが胸を去来しましたが

「こんなに思い続けるってことは、俺、やっぱ好きなんだ!」

と思いたって買ったZUCCaの財布。

コンビニの店員さんに凝視されたり、初対面の人に「お金が貯まりそうですね・・。」とひきつった笑顔で言われたり、色々ありましたが好きなものは好きなので仕方ないですよね。

「好き」に嘘はつけませんでした。

皆さんもどうか自分の「好き」を大事にしてください。


そして僕の財布を初めて見た方へ、僕をそんな哀れな目で見ないでください。

僕はこの財布、だまされて買ったわけじゃないのですから。

タイトルは
エレファントカシマシ 「秋 -さらば遠い夢よ-」
です。

ちょっとさみしげな歌詞ですが、曲調はわりと明るめです。

たまには独りで物思いに耽ってみるのも悪くないんじゃない?秋だし。

といった感じです。


孤独に関しての歌詞は他にも。


「鼓動が聴こえるくらい 憧れし孤独の闇へ行け」
「疲れた時は孤独になれ」

曲名「クレッシェンド・デミネンド-陽気なる逃亡者たる君へ-」

とも歌っています。

僕も孤独というものは(さみしいかさみしくないかは別として)悪い事ではないと思っているので大変共感できます。

だれも立ち入ることのできない自分だけの深海 その海底にいるような

胎内に還り 今再び生まれる時を待つような

そんな時を過ごすのは、必要な事だと僕は思います。

僕が数年前から「The Beach Boys」を聞くようになったきっかけは村上春樹の小説です。

しかしそれよりもっと昔、幼いころ車でどこか行くときにいつもカーステレオから流れていた「Surfin' U.S.A.」の影響を大いに受けているように思います。

そして僕のi-podの中に「内山田洋とクール・ファイブ」が入っているのは完全に父の影響です。

 

 年の瀬に実家へ帰った時など「懐かしの歌謡曲」みたいな番組を父と二人で(他の家族に白い目で見られながら)鑑賞します。

父は6070年代、音楽を(洋邦問わず)かなり聞いていたらしく、イントロが流れるだけで大体の歌の曲名を当ててしまいます。

 

ある時テレビを見ていると岩崎宏美が「思秋期」を歌う映像が流れました。

 

そのとき父が

 

「やっぱり岩崎宏美は歌が上手いなあ」

 

と言っていました。

父が歌に対する感想を言うのをあまり聞いたことがないので、とても印象的でした。

 

 

「思秋期」

 

僕は作詞家の阿久悠先生(勝手に先生と呼んでいます)が好きなので一応知っていましたが、ちゃんと聞いてみると、なるほど本当に素敵な曲でした。

聞いていると、過ぎ去った時を想いながら一人佇む女性の姿が浮かんでくるようです。

 

岩崎宏美さん、現在も歌の上手さはご健在でテレビにも出られています。

思い入れのある曲らしく「思秋期」をよく歌ってくださいます。

今と昔、どちらの「思秋期」も素晴らしく、それぞれ違った趣があります。

ただ僕は1977年当時の、自分や周囲の状況の変化に戸惑い、移ろう時に成す術もなく、それでも懸命に歌おうとする姿(に僕には見えます)に感動します。

 

今の季節にぴったりの曲だと思います。

 

 

あ、あとイントロが「犬神家の一族」のテーマソングになんとなく似ていて、流れるたびに金田一耕介(石坂浩二さん)の走る姿が頭に浮かびます。

 

もしよろしければ聞いてみてください。

キンモクセイの花薫る秋になりました。

皆様いかがお過ごしですか

ヤトです。

 

僕はキンモクセイの香りが好きです。

町からあっという間にあの匂いが消えると

「もう終わっちゃうのか、もっとあの香りを楽しんでおくんだった」

といつも思います。

何で好きなのか考えてみました

理由はきっと、特に花に詳しくない僕でも「あっ金木犀だ」と分かるくらい香りが個性的で強く薫るからだと思います。

でも人によっては嫌いと言われる方もいらっしゃいます。

「トイレの(消臭剤?の)臭いがする」

と言われる方。

先日は

「油粘土の臭いがする」

と言っていた方がいました。

人それぞれです。

 

最近のことをお話しますと

 

前から見ようと思っていた岩井俊二監督「市川崑物語」を見たことに端を発し、僕の中では「市川崑ブーム」、それに関連付けて「市川雷蔵ブーム」が起きています。

 

「八墓つ村」の萬田久子

「四十七人の刺客」の宮沢りえ

「細雪」の古手川裕子

「ぼんち」の若尾文子

 

みなさんこの世のものとは思えないほど綺麗で妖艶で、ただ女性たちを見るだけでも鑑賞する価値のある市川作品です。

今月、池袋の新文芸坐で「大雷蔵祭」という市川雷蔵出演作品を放映する企画があるらしいのですが、そこで市川崑監督「炎上」と「破戒」をやるらしいので是非見たいと思います。

 

 

あと大地喜和子が見たくてドラマ「白い巨塔」の古いほうを観はじめました。

こちらも大変面白いです。

なんだか画面の中の空気がすごく濃密で、ピリピリした感じがこちらにも伝わってくるようです。

最近のドラマ版で江口洋介が演じていた里見教授役の山本學。

愚直で誠実な里見教授を演じている姿がとても素敵です。

彼が彫り師を演じられている映画「刺青」を今度見ようと思います。

 

 

 それと12月に舞台に出演することになりました。

日時、出演者など詳しくは追って報告いたします。

皆様に楽しんで頂けるよう、日々稽古に臨んで行きたいと思います。

 

どなた様も素敵な秋を 

何がおいしいのか

何を美しいと思うのか

誰を素敵だと思うのか

何に怒りを覚えるのか

何を着るのか

何の香りが好きなのか

何に感動するのか

 

いずれも一つ一つは細々した、他愛のない、些細なものかもしれませんが、これらすべてを集めたら「生き方」とか「性格」、総じてその人そのものになるのではないかと思います。

だから僕は、自分以外の「誰か」にこれらの決定権を奪われたくはないな、と思います。
(もちろん人との関わり合いや、誰かに対する憧れ等、影響を受けることは多々あって何処までが自分で考え決めたことなのか、難しいところではありますが・・心構えとして。)

 

そんな風に気をつけていてもその「誰か」は「流行り」とか「普通」「常識」「一般論」「正義」なんて言葉で僕らの決定権を盗みます。
しかもその「誰か」は、それらの決定権がまだ僕の手元にあると思わせることも忘れません。
だから僕らは「これは自分で決めたことだ」思いこんでしまいます。

 

「誰か」は「みんな」を気付かれないように支配下に置きます。
「みんな」は、まだ「みんな」に加わっていない、あるいは加わろうとしない人を一段下に見て、嘲笑します。

「誰か」はそう仕向けることで「みんな」が満足することをちゃんと知っているのです。

 

根源である「誰か」はもしかしたら人ではないかもしれません。
人の「不安」みたいなものの集合体が「誰か」を作りだしたのかもしれません。

 

でも「みんな」は確実にいます。
大抵群れで行動します。
彼らは「誰か」の決めた価値観を正しいと信じて疑うこともせず、その価値観を振りかざし、僕や僕の友人を傷つけました。
「その人の為だ」「これは正しい事だ」とぬかして人を傷つけた奴、傷付けたことにすら気付かない奴もいました。

 

僕は「みんな」が嫌いです。
恐ろしくもあります。
きっと僕の中にも「みんな」的なものが棲みついているからだと思います。
認めたくはありませんが・・・

 

何故「みんな」的なものに自分の思考を委ねてしまうのか。
僕の実感ですと、その出発点は意外と「他人に対して和を求める心」かもしれません。

 

人に嫌われたくない

仲良くありたい

争いたくない

 

あとは「人と繋がっていたいと思う心」かもしれないです。

 

人が知っていて自分が知らないことがあると怖い

人に置いて行かれたくない

一人になりたくない

 

そういった思いが僕の中に「みんな」的なものの侵入を許したのかもしれません。

 

 

独りを恐れず、あらゆることを疑い、それでも人を信じて、色々な思想、意見を持つ多様な人々の存在を理解し、しかし時には衝突も恐れず、コミュニケーションを積極的にしていきたいと思います。

タイトルの歌詞は真心ブラザーズの

「マイ・バック・ページ」
作詞:BOB DYLAN 日本語詞:倉持陽一

です。



 高校生の時、僕は自転車で学校まで行っていました。(調子に乗って原付で行ったりもしましたが)

自転車で25分、傾斜はそこまでありませんが長い坂道が続きます。

にもかかわらず僕は、どんな時も一度も「立ちこぎ」することなく登校しました。三年間。普通の自転車で、サドルを一番低くして。

足を鍛えようとかそんなつもりは全然ないんです。


なぜそんな理解しがたい、地味で無意味な行為をしていたのか。

今となっては、そんな事をしていたという事実を思い出すだけで、当時の僕の心境を思い出す事は出来ないのですが(恥ずかしくて思い出したくもないのですが)多分、僕は


朝っぱらから一生懸命自転車こぐなんて、そんな爽やかっぽくて高校生らしくって何より青春っぽいこと、俺は絶対したくないぜ!


みたいなことを思っていたと思います。

何言ってんだこいつ、って感じですよね。

でも本当にこんな風に思っていたんです。


有り余る自意識、そこからくる羞恥心、高いだけの気位。


それらすべてが僕に失敗を許さず

結果的に僕は

失敗を恐れずに青春を謳歌する奴らを見下し

一生懸命汗を流す運動部を馬鹿にし

喧嘩の強そうな人たちの視線を避け


周りのみんながその若さで様々な事に挑戦するなか、「何もしない」という選択肢を選ぶことで、世界に反抗を試みました。

そして(矛盾するようですが)、「何もしない」ためのルールを自分に課していきました。

「登校時立ち漕ぎ禁止令」もその一つです。

僕は矛盾だらけで複雑なルールを順守しながら、(勝手に)つらい高校生活を過ごしました。

だけど僕はずっと心に抱いていました。

俺は本当は凄いんだ!

という根拠のない、しかし強い思いを。この思いが僕の高校生活を励まし温め、支えてくれました(結局自分は凄くないと、これは後々気づくのですが)。

おかげで僕は無事高校を卒業するわけです。

話は少し変わりますが、もっと充実した高校生活を過ごしていたら、僕は俳優を志していなかったと思います。まず間違いなく。



 前置きが長くなってしまいました。

「時が経てば、君は少し素直になって少しは生き易くなる」

東京に来て五年以上過ぎた頃、相も変わらずあまのじゃくで物事を斜に構えていた僕に、ある方がそんな予言をしました。

それから僕は、少しづつ自分の中のルールを廃し、単純化していきました。(もちろんその過程にも本当に様々な出来事がありました、が、それはまた別のお話。)

そして今に至ります。

おかげさまで確かに生き易くなりました。

虚栄心がいくらか減って、結局自分以外の人間にはなれないんだと気付きましたし、出来ない事がたくさんあることも自覚しました。

少しは身の丈に合ったものの考え方ができるようになったと思います。

何より、周囲の人に対して「何者かぶった」もっといえば「凄い人ぶった」態度を取らないでいいんだと気付いた時、だいぶ精神的に楽になりました。

まさにいいことづくしです。



 しかし、最近「何か違うな」とも思うんです。

あの頃の、悶々とした自分がもしこのままいなくなってしまったら、僕はそれをただ「成長した」なんて言葉で片付けていいんだろうか。

かつての自分のような後輩を見て、「俺も若い時ああだったなぁ」なんて言ってていいのだろうか?


僕にはまだ解りませんが、少しくらい生き辛くても煩悶して生きていこうかな、と思ったりします。

あのころより若く

この言葉の正確な意味を僕はまだ、わかりかねているのです。

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